鍋島直條(なおえだ)の文学的生涯について
2006年6月11日 読書同窓会の講演会でした。
上流も下流も同じ時代の空気を感じて、どうたらこうたら、
ここを参考に頭を整理したりしたりした。http://www.kyoto-seika.ac.jp/iwamoto/class/2001/japanese_literature/lecture_02.html
何か歌ってと言ふ事なので、
最後に「Morir!」=「死」 と叫ぶ二曲
愛の神よ照覧あれ、(せつなくて死にたいアルマヴィーヴァ伯爵婦人)
ムゼッタのアリア
(貴方が私に恋焦がれて、死ぬほど苦しんでいるって事、知ってるわよ)
庶民は常に上流を気にしている。講演の中身をちょっと書くだけで、ツカレタ。
と、いう導入での井上敏幸氏の講演。
鹿島藩第四代藩主直條公は、8000石くらいで、
他藩の家老くらいなのに、格は高く、
参勤交代に幕府の役目にと、苦労は絶えなかった。
江戸時代の藩主の師弟は江戸育ちで、家督を継いだ藩主だけが、
国へ帰るのが、普通だったが、直條は鹿島育ちで
国に対する愛着は強かった。
21歳から亡くなる51歳までの間、
主に参勤交代の旅中に32篇の紀行作品を残した。
そして、それは三期に分けられる。すなわち、
21歳から30歳までの漢詩文中心の第一期10篇、
31歳から41歳までの、漢詩文および和歌、連歌、に俳諧が混じる。
42歳から50歳までの寡作期。
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参勤交代の旅中、
箱根の僧徒が、時宗兄弟の刀を入れた箱を示され、
「浮屠等、以新器託之旧物矣。嗚呼僧徒之欺誑民族者至于此。」
のごとく、激しい言葉でそうした行為を非難している。
また、
妙義山の山伏十数人に会い、妙義神号を唱えられたのを、
「余、白眼而過、羞此之国賊之類乎」とまで言っている。
山伏達は、自らの務めをやっているだけなのに!
これらは、林家の思想に染まり、
「朱子学に基づいた素晴らしい藩主になりたい。」
という青年直條の客気の姿勢と見て取れる。
藩主としての「仁政」への関心は晩年まで見受かられるが、
「僧徒」に対する非難中傷は、30歳代に入るや否や
全く姿を消してしまい、逆に船で本の交換をした等、
僧侶達との親交が目立ってくるようになる。
まさに、「君子豹変す。」だ。
漢詩と、文章体の独立を保ちながら、
一遍の紀行作品を作る特徴と工夫が見られる。
松尾芭蕉も同じような事をしている。
お二方とも、黄檗宗の影響を受け、
旅で人生を費やしたが、松尾芭蕉が脚光を浴び、
直條公があまり知られていないのは、
「雅文学」の方は、明治以降「封建」的なものをいやがられた結果だ。
直條公は第三期は和文に回帰し、連歌を詠んだ.
連歌とは和歌の熟達した人々が集い、
互いに「つけあい」=「つきあい」とするものだが、
直條公らのそれは、日本の文学史で最後のものである。
「私はなおえだちゃんと心中しま〜す。」
「誰かー。(一緒に研究の為に)ニ、三人死んで貰わんと。」
上流も下流も同じ時代の空気を感じて、どうたらこうたら、
ここを参考に頭を整理したりしたりした。http://www.kyoto-seika.ac.jp/iwamoto/class/2001/japanese_literature/lecture_02.html
何か歌ってと言ふ事なので、
最後に「Morir!」=「死」 と叫ぶ二曲
愛の神よ照覧あれ、(せつなくて死にたいアルマヴィーヴァ伯爵婦人)
ムゼッタのアリア
(貴方が私に恋焦がれて、死ぬほど苦しんでいるって事、知ってるわよ)
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